昭和45年02月26日 朝の御理解



 御理解 第68節
 「神参をするに、雨が降るから、風が吹くから、えらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。如何に有り難そうに、心行や大祓いを上げても、心に真がなければ、神に嘘を言うも同然じゃ。拍手も無理に大きな音をさせるに及ばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも大声をしたり、節をつけたりせぬでも、人にものを言う通りに拝め。」

 私はこの六十八節を頂くたんびに思うのですえれど。これはもう、信心の基本、ね。しかも、その信心がおかげを受けると云う事ではなくて、お徳を受けて行くと云う信心の基本です。私は、此処の所を頂きます時に、私もこの通りのおかげを頂いてきたと思うんです。勿論私が終戦後、外地から引き上げて帰りまして、此のかたが信心です、それからこっちの信心、もうここの所を、私が、ま教祖の御教えを行じて来たと言うなら行じて来た様に思います。
 自分の都合の良い時にお参りする、お天気の日だけお参りする、まあ、自分を中心にした信心からね。そう云う信心から、もう、神参りをすると云う事はもう、雨が降ろうがそれこそ日が降ろうが、参るとこう決めた。是は、やっぱりこの天候だけの事では在りませんもんね、自分の身の内にもそのやっぱり病気なんか怪我なんかする事が有りますから、それはもう病気をしても、怪我をしておっても、お参りだけはさせてもらうと心に、そう云う一念を立たさせて頂いてお参りをする。
 ですから、是はどうでもその、その辛抱こそ身に徳を受ける修行、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと、こう仰るのですから、こりゃ。人間は只おかげを、お願いをしておかげを受けた云うだけでは幸せにはなれん、人間の幸福と云うものは、是はお徳を受けなければ、本当に神様の御信用を頂かなければ人間の幸せはもう有り得ないと、分かってからの信心ですね。ここは。
 私共がやはり何十年その過去に於いての信心が、所謂おかげを頂くと云う事の信心でしたから、そりゃ様々な信心もやっぱり致して居ります。ね。けれどもそれはおかげを頂きたいばっかりに水を被った事もあります。ね。お百度踏む様な信心をさして頂いた事も有ります。やっぱりおかげを頂いて参りました。けれどもそれがそのおかげを頂きますと、途中折れに成ってしまって、それが続けられると云う事に成って来ない。
 だからおかげを受けると云う事は、言うならば時々参ってもおかげを頂く。けれどもその辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと仰る。この其の辛抱こそ身に徳を受ける。身に徳を受けたいお徳と云うものは、あの世にも持って行けるそうな、又は子孫にも残るげなと、お話を聞かせて頂いて、成る程お徳を受けて居られる方達の姿と言うものを見ると、そうであるやっぱり。やっぱりお徳と言うものは有るんだな。
 お徳が残っておる証拠だと、云うものを見るにつけ、聞くにつけです、その思いが、これは身に徳を受けなければ、人間の幸せは無い、是はもう、あの世この世を通してそうなんだ。そこで身に徳を受ける信心と云う事が、ま言われる訳なんですけれども、その基本に成るものが、この六十八節です。神参りをするに雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ身に徳を受ける修行。
 昨日なんかも丁度その雨、嵐の中を参って来た方が、もう下の方はびっしょり濡れているのですよ。だから足袋も脱いでいるのです。お広前に座るのに濡れるから何か、ビニールの風呂敷かなんかを敷いてから座らんならんと云う位なんです。ね。今日はもうしるしかったじゃない、もうそれこそ何時もより、長い長い御祈念をして居られる。下はじゅくじゅく濡れとってから足袋も濡れとってから、確かに信心ちゃ不思議なもの。ね。そう云う例えば雨なら雨風なら風をおかして参った時程有り難いんですよ。
 成る程この有り難いのがお徳に成るのだなと思います。不思議です皆さん、皆さんも、体験がお有りになる事だと思いますがね。折角信心をさせてもらう、信心を本気でやろうと云う気持ちを出したらね、此処の所をひとつ体験すると、いわば止められない事に成るです、有り難い。難儀なら難儀をおかして参って来る、困った事なら困った事をおかして参って来るもう兎に角、お参りが出来ない事情に有るけど参って来る。
 足を怪我してちんかちんかしながらでも参って来る、風邪を引いてちった頭が痛いけれども参って来る。もう一念ですからその一念お参りをさせて貰うと言う一念なんです。そこに確かに力が付く。成る程お徳が付く事を私は感じて参りました。確かにですね信心ちゃ其処ん所が有り難くなって来るところまで、一つ信心を進めにゃいけんですねえ。そこで是は椛目時代でしたけれども、雨の降るに参って来た人が有るんですよ。
 このご理解を何回も繰り返して頂いて、はーもう今日はもう御蔭を頂きましたと云う訳なんです。あきら君今日は雨の中をよう参って来たねと言うたら、もう先生、雨やら風やらおかして参って来るのが、お徳を受ける信心と仰いましたから、今日はいっちょお徳を受けたいと思うてから、参って来ましたと言う。皆さんどう思いますか。普通は参って来んどいて、雨の日だけ参って来る。
 お天気の日には参って来んどいて、今日は雨の日じゃけんお徳を受けるぞと言うてから参って来る。そう云う例えば間違いをしている人も有るんですよ、昔は在ったんですよ、樺目時代には。勿論是は神参りをするのに雨が降るから、もう日頃はもう参り過ぎる位に参っとるとです、参られる時にそれでいて、これは参られない事情が起こったり、そらもう足を怪我しとるたあ神様が御承知じゃから、もう今日は御無礼しようと。
 それも動かれんごたるなら、どんこんいかんけれどもね、辛抱すりゃ参られる、もう風邪位な事は昔は、それは信心の無い人でも言いましょうが、若い時には引かずに押せと、もうそれこそ、押しこくってもお参りをする、もう前に進む事しか知らん。そら若い時でなからにゃ出来んと思うけれども、そうじゃあない信心の魂と云うものはね。そう云う勢いを出すと、そう云う魂の中に生き生きした元気が出て来るのです。
 これは若い時でなきゃ出来んと云う事では決してない。ですからそう云う例えば、辛抱がそのいよいよの時に出来る事の為に、様々な修行を工夫する訳です。はぁお滝の水を頂いたり、私の方の修行生の中には、もう何年ちゅて風呂には入らない人が居ります。そして、お水だけ、しかもお水も外へ出して寒中にもう凍る様に成らして置いてから、それをかかる。それこそどの様な事が起って来ても、言うなら、雨が降っても風が吹いても、信心の心を緩める様な事があっちゃならん。
 その心を鍛える為に、そう云う修行も、又だから私は必要だと思います。もうご飯食べんじから、腹ペコペコじゃからお参りは出来ん、這うてでも参ると云う勢い。此処の所を、私は此処ん所を本当に実行して来たと思います。自分はそれもですもうほんに信心ちゃ苦しいこつじゃある、こげな雨の降る日にでん、風の吹く日にでん、参らにゃならんと、もう思うて参った事は一辺でも有りません。
 もう本当にそれこそさっきの話じゃなかばってん、雨が降れば降る程風が吹けば吹く程です、そう云う時のお参りの方が確かに有り難いか楽しいです。信心ちゃそげなもんです。ですから身に徳を受ける修行じゃと、その辛抱こそみに徳を受ける修行じゃと。今日はもう、バス代が無かけん御無礼しよう、歩いて参ります、久留米の光橋先生なんか、まだ先代が居られる様に、まあ日参をなさった事が有った自転車で。
 所がその自転車が壊れた。それから歩いて参った。いうなら久留米から、三里の道をいわゆる、往復六里の道をお参りしておる。もう自転車が今日はパンクしとるけんで神様が参らんでん良かち、言いよんなさるとこジャロ、と云うなふうに、楽な方にばかり取ろうとする人が有る。はあこれは今日は修行して参れち言い御座るとばいなあと言うてです、嬉しゅうなる位にならにゃいかん。
 これは、もう昔の信心ですけれども、毎朝自転車でお参りを致します。そうすると、前の日に大体ちゃんとして居るけれども、明くる朝、ちゃんと空気が抜けてしもうとる事があるです。それでやっぱ空気を入れますけれど、空気入れの方も壊れとると、言うときも有ります。自転車屋も来ちゃあ、御座れんと云う時もあります、まあ、あれも是もこうしてみてです、そして思う事は、今日は歩いて参られるぞと、云う位の気持ちが起こりよりました。よね確かに。
 そこんねきが、大事なとこですよね。その空気も入れてみろう、自転車屋が来て御座るなら修繕もして行きたいけれども、それでも例えばもう自転車の空気を見て乗られませんから、そん時に、もう良かよかと云うてまた寝ると云う事ではなしにです。今日は修行させて頂きよるぞと、何かかえってこう、楽しみができる位な様なものは、是はもう昔から有りよりました、私の信心の中味に、
 けれども、まあいよいよです、身に徳を受ける修行とこの辛抱こそ身に徳を受ける修行と云った様なものが、段々分かり出して来た。成る程、そう云う事を、雨風なら雨風をおかして、お参りをさせて頂くと云う時ほど有り難かった。成る程、その有り難かったのがお徳を頂いて居る時であったと、自分でこう思う。そんなら、今でも同じ事です。今でもやっぱり、そのまあ、それが本当の徳には成っとらんだろうけれども。
 お徳を受ける基礎と云うものがね、この六十八節からこう云う信心が身についてしまった所から、頂けるんだと思います。だからもうお徳を受ける。身に徳を受ける修行と云う様な所に開眼してからの、言うなら信心に、なら、これはもう、容易う出来ますよね。けれども、御蔭御蔭と言うておる時には、一寸難しい、そこん所がね、開眼しなければいかん。昨夜は、婦人部会で御座いました。
 そのう田中さんも参加させて頂いた。まあ皆さんの熱心なお話を頂きながら、まあ昨夜お参りをして見えてからもうあちらは、信心が随分永いのです。お婆ちゃんが善導寺の教会におかげを頂かれて、そして信心を受け継いで会楽に見えられてから、此処にああして、毎日お参りになります。まあ朝と晩とお参りが有ります。それでもう本当に考えてみますと今迄、例えば自分のお店の事、子供達の事を、一生懸命お願いをして朝参り、夜参りさせて頂きましたが、先生今日ばかりはいわば眼がさめたとこう云う。
 婦人部会の方のお話の中に、何方かがお話しをされた、お話しの中にもうお互いひとつ、この神様は、例えば小倉の初代が、これは頂かれた話ですけれども、神様からある時、お知らせを頂かれた。桂松平汝が徳を受けて、そして参って来る氏子にどんどんおかげの貸し付けをして置けと仰った。取次ぎの先生がお徳を受けてそれで、先生の徳でおかげをどんどん、言わば、信心は出来んでもおかげをどんどん貸し付けておけ。
 この世で払えん時には、あの世にまで取りに行ってやるわいと仰った。だからねおかげを受ける受けると云う事は、言うならお取次ぎ者の徳、金光大神の徳によって貸し付けられて居るようなもんです。ですからこの世で払えん時には、あの世までも神が取りに行ってやると、仰るげなから、あの世まで取りに来られちゃ困るからお互い本気で一つ、本気でお徳を受けた信心させてもらおうじゃないですかと云う話を聞いた。
 昨日。それもその話しは何回も聞いた話しでしょう。けれどもやっぱり、時期が来なければ、駄目なんです。もうそれこそもう目が覚める様に、はぁほんに私が、永年お参りをしよるけれども、自分の店の事ば一生懸命願う、子供達の事を、一生懸命願うだけの信心であって、ほんにこげな信心じゃあの世にまでも、神様から集金に来られる事があっちゃ出来んと思うた。
 是から本気でお徳を受ける、修行させてもらわんならん、信心させてもらわんならんと、思いますと言われるから、私は夕べ田中さんに申しました。おかげ頂いたね、それこそ、今、天地の開ける音を聞いて眼をさませと仰るが、もう正しくあんたは、天地の開ける音を聞いて眼をさましたんだと。天地の開ける音と云うのはですね、もうそれこそ、その音と云うのはね、天地が回転しておる、地球なら地球が回転しておる。
 その回転音と云うのは、もうそれは、大変な音がしておるけれども、余りにも大変な音だから、それが実際は分からんとです。もう一辺その天地の回転音と云うのを、少しでも聞いて御覧なさい、もう鼓膜の破れるごたる。それが余りにも大きいから分からん。余りにも偉大なおかげであるから、偉大なお陰の中にあるから分からん。昨日、大和さん達が謝恩祭のお礼に夫婦で出て参りましてから、いろいろと、本当に今度のお祭りには、広大なおかげ頂きましたと云う話をして居りました。
 丁度お祭りを仕える一月位前から、水が出らん様になったからそのまあひとつ、別なのを掘ると云う事であった。それけん宅祭りに間に合う様にと言うので、言っとったから道具を持って来なすった。そしたらその人が言わっしゃるのに、此処は家相の悪かけんで、此処に掘ったちゃいかんとか、何とかかんとか言ってから来なさらん、来てもらわん事ならどんこんされんと言いよるうちに、とうとう水が枯れてしまった。
 それでもうお祭りと云うのにどうするかと云うので、自分で井戸ざらえをされた。井戸ざらえをしたら尚出らんごとなった。あの時お祭りをされた方達はあの時のお話しを聞いて居られるから分かるでしょう。「池亀」「角ノ井」と云うお知らせを頂いてのそれでしたですもんねえ。成る程池亀、角ノ井と云う御理解を頂く筈だと思いました。あのお祭りを仕える前の日からどんどん出るごとなった。
 もうあの昨日なんかはもう、鯉が生かしてありましたから、出しっ放しに出してあるけれども、一向枯れるごたる風じゃないと云うおかげを頂いた。成る程それはお湿りが有ったけんでと、さあそのお湿りそのものがおかげでしょうが。丁度そん時に3万円で請け負わせちゃった、それで向こうは来んでせんから、おかげでそれで今度の宅祭りは出来ましたと、おかげで水はま今日迄、どんどんおかげで出しっぱなし、出しとって出よりますとこう言うのです。
 まぁその話を聞かせて頂きながらですよね、お水なんかちょっとひねりゃジャーッと、水道が出るもんじゃけんで、あんまりふんだんに恵まれておるとですねえ、恵まれておるから、それをおかげをおかげと感じないでしょうが。天地の回転音、大音響と云った様なものはそんなもんです。余りにも偉大なものですから聞こえない。まあそれに似た様なもんじゃないでしょうかねえ。
 いよいよ水が止まってしもうて、初めて水の大恩が分かったと云う事になる。宅祭りを境に又、じゃんじゃん水が出る様になったと言うて昨日お礼を言うておられます。そこでです、例えば田中さんが、昨日言われます様に、それこそ今天地の開ける音を聞いて、例えば、その大音響とも思われるものがですね、初めて聞く様に響いてきた訳です。そして今までの信心じゃあいけんと云う事になって来た。
 信心の眼が開けて来た。さあ其処からですねえ、身に徳を受ける修行、其処からね、神参りをするのにと云う事が云え本当に出来て来る訳です。本当の信心が頂きたい、本当の徳が受けたい、そこからです、その次ぎの所ですねえ。いかに有り難そうに、心経や大祓を上げても、心に真が無ければ神に嘘を言うも同然じゃと云所、それ迄はですねえ、神様に嘘を云う様な信心ばっかりしとるとですよ。神様は騙されなさるです。
 もう騙すと言うなら、そう云う事はもう平気でです。言うならば、おかげの貸し付けをさっさとして下さるのです。椛目でもう本当に無い命を助かった人があった。先生、私がおかげを頂きましたなら、まああの時、樺目は二十何枚か位、お縁の方まで入れて、二十枚位な事だったでしょう。その人が言よった、私が全快のおかげを頂いたなら、この畳を私一人で畳替えのおかげを頂きますと言いよった。
 おかげ頂いて助かった。ばってんさあ一枚の畳替えも出来なかった。だから神様が騙されなさる事が分かるでしょうが。畳替えは私がおかげ頂いたなら一人ですると言いよった、だから勿論、神様は、それに騙されなさった訳では無いだろうけれども、それでもです、それ位の事は、神様が大目にみて御蔭下さるのです。おかげ、おかげと云う時には、それこそ、千の灯籠も一人でお供えするごと言うて、実際は、さあ今、神様を騙くらかしよる時と、云うごとして、おかげを受ける人が有りますけれどもね。
 やっぱ受けますよおかげは。けれどもね身に徳を受ける修行じゃが、始まって来るとですねえ、今度はもう馬鹿らしゅうして、言うなら此処に神に嘘を言うも同然じゃとおっしゃる。神様に嘘を言うも同然じゃと云う様な信心は、もう馬鹿らしゅうして出来んごとなるです。何故て神様の御信用を受けなければならん。御神徳と云うのは神様の御信用と仰るから、だから裏もなければ表もない陰日なたの無い心が、おのずと出来て来るです。徳を受けると云う姿勢になりますと。
 これは身に徳を受けなければと、だから言葉が段々少なく成って、中身が段々立派に成って来る。身に徳を受ける修行と、それこそ修行でも、こっそりこっそりさせてもらおうごとなって来る。もう神様だけが御承知の世界での事だけを、一生懸命しようごとなって来る。人が見ようが見るまいが、そげな事は問題じゃなか、むしろ人の見えない所を大事にしようごとなって来るです。是はもう私の体験です本当です。
 本当に徳をだから、お徳を受けなければ、この世では幸せになれん。お徳を受けにゃあと云う願いを立てたら願いを持っておる人はだから安心です。絶対悪い事をする筈がなかです、けれどもおかげはです、悪いことしたっちゃ御陰は下さる。だから神様も甘いなあ、だまされなさるなあと思うごたる。けれども身に徳を受けねばと、此の六十八節のここの所を、段々に分かって来るとです、神様にいわゆる嘘を言うも同然じゃと言う様な信心は段々出来なくなって来て、その出来ないその事が有り難くなってくる。
 例えば、私の四時の御祈念などは、もう全然、その小さい音でも聞こえると仰るけれども、小さい音もしません。私拍手打たずに、打ちません。御神前に座る時、座るときも、只、御祈念が終わる時には、それも、小さい声で、皆さんが五時のご祈念ちょっと前に参って見えると分かる、私が、パチーンちゅ様な音をさせんでしょうが。それかちゅてさせにゃならん、さしていけんちゅ事は決して無いです。
 皆さんの場合はさしたが良いです。ね大祓いや心経を上げるでも、大きな声を出したり、節をつけたりする事はいらんと、おっしゃるばってん、やっぱ節をつけた方が、一つのリズム感と云うのが有ってね。調子がよう出て来る。だからこの前提としてですねえ、例えば様々な修行も必要でありますがです、そんなら拍手もポーンと良い様な音が出た方が有り難い。神様が早うこっちを向きなさる感じがする。
 けれども、もう私が座る時には、神様が心を開けて待って御座る、私の実感がそれですから、もう拍手打つ暇が無いのです。朝の御祈念は、だから、皆さんの場合は、まだそうじゃないでしょう。いくら、拍手打ったちゃまだ神様が向こう向いて御座る感じがするけん、やっぱ拍手の研究してから、良か音の出るごたる。神門拍手と云うて、拍手を打つ事によって、神様がお扉を開いて下さると云うお徳があるのです。
 教祖様の一番初めの頃はそれであった。教祖様だって拍手を打たれると柏手によって、神様がお心のなかを開いて下さると云う時代がお有りになった、だから皆様はそこの所をま一生懸命稽古をなさらなきゃならん、だから大祓でも一生懸命腹の底から上げんと、一生懸命が出て参りませんでしょうが。私は此処から見ようるとですそろそろしやっちから、きょろきょろあっち見たりこっち見たりしょうる人が有るです。
 まそれはそげんであげなふうで向こうはごと成るです、それけんですね、一生懸命あげよう人はもう前のほう目を瞑ってこうあげよるから、それだけ一生懸命が出来ます。だからそれは過程の事上げちゃならん、大きな音出しちゃならんと云う事じゃ決して有りません。だから、お互いの信心がですね。神参りをするに雨が降るから風が吹くから、えらい大義と思うてはならん。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと。
 と云う為には、此処は徳を受けようと云う気に成なきゃ此処は出来ない事が分かります。田中さんじゃないですけれども、翻然として心の中が開けた。今までの信心じゃいかんと思うた。そこで、そんなら、徳を受ける信心と云う事になりゃあ、お徳とは、神様の御信用と仰るから、神様からもうあれの言う事はあてにはならんと云う様な氏子であっては、いよいよ信用は受けられませんから。
 それこそ、表よりも裏を大事にする様になります。せにゃ馬鹿らしゅうなって来るです。そこん所がね、如何に有り難そうに大祓や心経を上げても、心に真が無ければ神に嘘を言うも同然とおっしゃる、此処ん所、もう嘘を言うちゃ馬鹿らしかと云う事になって来るのです。真でしなけりゃ馬鹿らしゅうなって来る。しかも、雨に云わば濡れたり、風に吹かれたり、そう云う時に金光様金光様を一心に唱えてお参りをして来る。
 それこそ昨日の人じゃないけれども、下の方をじゅっくり濡らしながらです、足袋も脱いでです。お広前には何か敷かなければ、座られん位有るけれどもです。いつもより長い長い御祈念をしておられる事は、やはり心にも有り難いが有ったからじゃないだろうか。ね。私はこりゃもう私がこの六十八節はね、私がこのまま行じて来たように思います。雨が降る時、風が吹く時の方が、有り難かった。そうして尚且つその先に分からせて頂いた事はです。ね。お参りするのに雨が降るから、風が吹くからだけではない。
 人生の上にある雨やら風やらもです。これを黙って辛抱させてもらう。いわゆる成り行きを大事にさせてもらうと云う行き方は、いよいよお徳をうけて行くと云う事が分かってきた。人生の中にも雨がある、今が本当に雨の時じゃろうかと、泣きの涙で、過ごさんならんと云う時がある。だからこれは例えば、お参りをするとに雨が風がと云う事は、だから日々の生活の上にも、雨風があると云う事が分かりました。
 そしてその雨風をです黙って受けて行く、合掌し受けて行くと云う様な生き方こそです。いよいよ真の信心だという事も分かって参りました。神様が私に求め給う修行であるという事も分かって参りました。その辺は私が日頃申します通りであります。けれども身に徳を受けると云う、修行のひとつの根底になるもの、それにはまず私共がです、本気で信心を頂こうと、本気で徳を受けようと、徳を受けなければ。
 人間の幸せはあり得ないと云う事がです。言うなら開眼させて頂いた時です。心の眼が開けた時です。もう、神に嘘を言う様な信心は出来なくなって参ります。そこが神様の願いであり、又、私共の願いでも有らなければならん訳ですね。私はこの六十八節をはぁ私は此処の所を、一生懸命行じて来た。この事を行ずる事がしかも有り難かった。それが今日この様に、段々御蔭を頂いて来た元であったように思うのです。
   どうぞ。